日経ビジネスExpressの糸井重里氏インタビューが面白かったです。
小鳥(a little bird): 糸井重里氏インタビュー
http://coolsummer.typepad.com/kotori/2005/01/post_1.html からリンクを辿りました。
これまであんまりブログに書いたことはなかったのですが、私は ほぼ日刊イトイ新聞(以下「ほぼ日」)がかなり好きです。
しかし、なんでほぼ日が好きなのか、説明するのが難しい。
留学中、図書館のパソコンでほぼ日を読んでいる私があまりに楽しそうだったらしく、韓国人の友達に「今読んでいるのはどういうサイトか」と聞かれた時、説明するのが難しかったのと同じくらい。
ほぼ日について思うところを、出会いに遡って書いてみます。
私が最初にほぼ日を読み始めたのは、2000年頃でした。
何か仕事で調べものをしていて、ほぼ日のどこかのページがヒットして、読みに行ったのがキッカケでした。その後、継続して読むようになったのは、そのときついでに他のページも目的なくダラダラ読んでてたまたま出くわした、「ガンジーさん」が気に入ったからでした。
気に入った、というと、軽く聞こえて、失礼かもしれない。
末期癌を患っている、当時65歳だったある男性が、糸井重里にメールを出し、男性が家族宛に送っている「親戚新聞」を、ほぼ日にも掲載することになった、というのが発端だったので。ガンジーさんの文章はところどころ間違っていたり、読みづらかったり、いわゆる従来のメディアに出ているような洗練されたものではなかった。でも、リアルすぎて怖いぐらいで、「目が離せなかった」というのが正直なところだと思います。
ほぼ日には、他にもたくさん私の好きな連載があります。
「天才の歌は、いつもポップソング」で引用させていただいた「坊さん」、読むたびにビジネスについて考える心がむくむく刺激される「感心力がビジネスを変える!」、モノ書きとしてのスタンスに共感を覚え、こういう風に物事を見れる人でありたいと感じさせてくれた「ぼくは見ておこう」、ブログではあんまり取り上げたことがないけれど、広い意味で「どう生きるか」みたいな私の考え方に強い影響を与えている「大人の小論文教室」
実は、ブログを読み始めたとき、私が真っ先に思ったのは「これってほぼ日みたいだな」でした。
純粋にフィードバックを目的としたフィードバックの送り先が、実はサイト全体でメールアドレス一つしかなく、読者のお便りは全て編集局の目と手を経て再び読者に提示される、というところは世の大半のブログとは少し違うけれど、究極的には糸井重里という1人の人の価値観で良いと思えるものを共有できる人達が、それぞれ個人として読者に語り掛けているというところ(と、少なくとも一読者には見える)は、ブログが流行っているところに通じると思います。
既存メディアの「プロの技」を否定するわけでは、決してないのです。
自分でブログを通じて情報発信を始めてみて、世界を圧倒的な量と質で切り取って見せる従来のメディアのすごさが分かった面も、私にはあります。同時に、ものすごく限定された範囲でなら、個人にこそ本当に生々しい一次情報というものが存在していることもあるのだということも、強く感じています。
矛盾したことを言っている気もしますが、今の私の結論としては、ほぼ日やブログの流行が示唆しているのは、プロによる情報や知識のヒエラルキーの崩壊というよりは、「情報が編集され、受け手に提示される、これまでの世の中の枠組み」が制度疲労を起こしていて、また新しい秩序が世界に生まれる、今は過渡期にあるんじゃないか、ということです。
それは、全く新しい物が、これまでとは全く懸け離れたところから突如として現れる、というよりは、イギリスの作家・Jeffrey Archerの小説(タイトルは思い出せない)のラストシーンにあったように、リヤカー一台から八百屋を始めて徐々にのし上がり、超大型流通企業に育てた男が、大社長になった後、社員や家族に隠れてコッソリとリヤカーを引っ張って、再び市井で活き活きと商いをするみたいなのが、私の持っているイメージには近いです。
アメリカでは、Do-Not-Call registryに約半数の世帯が登録し、デジタル・ビデオ・レコーダーを持つ世帯の7割はCMを見ない時代になり、メディアやダイレクトマーケティングが変貌を遂げようとしています。そういう過渡期に、たとえ個人で細々と運営する辺境のブログであっても、同じ時代の空気を体験できているのは幸せなことです。
・・・ブログ始めたときは、正直、そんなこと考えもしなかったけれど。
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